連載第2回ロシア帝国の一部としてのサハ(ヤクチヤ)(17世紀~19世紀)
最初にロシア人としてヤクートに入ったのは、1623年にレナ川を筏で下ったピャンダのコサックたちでした。1632年には、別のコサック、ピョートル・ベケトフがヤクートの地に最初のロシアの街であるレンスキー・オストログを建設し、後にヤクーツクと呼ばれるようになりました。この年がヤクートがロシア国家の一部となった年とされています。1634年1月、大勢(最大1000人)のヤクート族が約200人のコサックが守るヤクーツク・オストログを包囲しましたが、コサックたちは攻撃を防ぎ、ヤクート族はまもなく攻撃をやめました。しかし彼らはその後も長く抵抗を続け、遠く離れた地域へ逃れました。1638年にはヤクート州が設立されました。ですから今年2025年はサハ建国387年です。
正教会の聖職者の活動は、ヤクート民族の民衆教育と啓蒙の発展、民族語での文学の誕生、民族間交流の深化と結びついています。
ロシアの移住農民たちは北方農業の始まりをもたらし、北方民族たちを農耕に引き入れました。
1646年にヤクートの指導者たちはヴァシリー・ニコラエヴィチ・プーシキン軍総督に、地域の生活改善のためにモスクワのツァーリに会いに行くよう要請しました。しかしこの訪問は1676年12月まで実現せず、彼らはついにモスクワに到着しました。代表団は3人の王子、ノクト・ニキナ、マザラ・ボゼコフ、トレク・オシューリカエフと彼らの「カシェヴァル」(随行者)から構成されていました。彼らはツァーリのフェドール・アレクセーエヴィチによって盛大に迎えられました[33]。結果は概ね良好でした。
ヤクートの歴史における別の重要なページは流刑です。流刑は1640年代から始まりました。当初は多くの人が「耕作のため」や「奉仕のため」、「居住地への追放」として送られました。19世紀以降、ヤクートへの流刑は主に政治的なものとなりました。流刑地としてヤクートにはデカブリストや1863年のポーランド蜂起の参加者、革命家、社会民主主義者たちが送られました。彼らの名前はヤクートの町や村の通り名として残っています。
1857年10月31日、ヤクート州から沿海地方にウドスク(オホーツク)地方が編入されました。ヤクートのロシア併合は、多民族中央集権国家としてのロシア形成過程の重要な一幕でした。16〜17世紀におけるロシア人のシベリア進出は、多数の民族や部族を含むこの地の国家構成を大幅に拡大しました。同時に、それは北東アジアの広大な領土への国家境界の拡大を意味しました。ロシアの北東への国境拡大、新たな広大な領土の併合は、ロシアの地主や商人だけでなく、シベリア先住民族や一般のロシア人の利益にもかなっていました。シベリア開拓の主導権は中央政府だけでなく、地主や農奴制国家の圧政から逃れてシベリアへ向かった自由を求めるロシア農民たちにもありました。17世紀中頃から中央ロシアで農民の農奴化が強化されたことは、ロシア農民がまず西部、次いで東部シベリア、さらにはヤクートにまで移動する主な理由の一つとなりました。もちろん農民はここでも長く自由でいられず、軍総督、管理人、商人が続き、新しく開拓された辺境でも徐々に封建国家の圧政が確立されました。ヤクートのロシア国家への編入は国内市場の拡大を大いに促進しました。ヤクートの巨大な資源、特に貴重な毛皮の開発はロシアの経済力を強化しました。ヤクートはシベリア他地域とともに、ロシア全土の市場に最大量の毛皮を供給し、その価値と需要の高さから17〜18世紀には通貨の役割を果たし、時には国家通貨の3分の1を占めました。国際市場の成長に伴い、多くの毛皮が海外へ輸出されました。
ヤクートでは併合初年度から地元住民との活発な交易が行われました。ロシア人はヤクートの遠隔地への大規模な交易隊を組織し、当時の数百ルーブル相当の商品を持参して毛皮と交換しました。この交易にはヤクート先住民をはじめシベリア各地の先住民族も関心を寄せていました。
1916年、ヤクートはニコライ2世皇帝による1916年6月25日の「先住民族の徴用」勅令を免れました。この勅令は、19歳から43歳までの先住民族を第一次世界大戦の前線近くの後方作業に動員するものでした。この勅令の実施に伴い、1916年6月30日、イルクーツク地方旅団本部はヤクート県の軍事長官N.D.ポポフに対し、「ヤクート州のヴェルホヤンスク、スメドネコリムスク、ヴィリュイスク地区に居住する19歳から31歳までの放浪者およびすべての住民」を動員するよう求めました。ポポフは約2万人の先住民族が徴兵されると見積もりました[34]。彼らは7月24日から8月24日にかけて19回に分けて蒸気船で送られる予定でしたが、1916年7月17日にヤクート総督ド・ヴィッテは「ヤクート州の先住民族の軍の後方作業への徴兵は中止された」と報告しました。ヤクート人の動員回避はレンスキー金鉱会社の嘆願によるものでした。